Thursday, October 31, 2013

生まれた理由

「なぜこの世に生まれたのだろう?」 いつか必ず人間はこの質問を思い浮かぶ。答えは人それぞれ違うかも知れないが、僕ながらの回答を少しずつ思いついて来た。
僕は主に三つの理由があると感じた。
「知る」「感じる」「 作る」
何も知らない人は何も感じられないし、何も作れないから、やはり「知恵の泉」が一つ目にすべきだと思った。「作る」には理屈だけでも色々作れるかもしれないのだけれども、僕らは学べる力があるの他に、感じている能力を持っているからこそ他の動物と見分けられるだろう。もしかすると、感じていない「人」は未完成な・壊れた人間とも言えるほどのこと。
世界を知り、世界を感じ、何かを作って世界に残す。
だが、作るにも色々ある。だから簡単に定義出来るものではないと思う。
後は、知るのも「世界」を書いたが、人間も世界の一部であり、自分を知って他の人を知るのも「人間として」のとても大切なことだと思う。
何も作れない人は本当に知っている、本当に感じている証拠はない。
なので、人間は自分の後に必ず何かを残さなくてはならない。他の人の心の中の小さな種、他の人にやくに立てられるようなもの、自分に意味のあるもの、実は何でも良いけど、残さなくてはならない。

その中に様々な方向がありながら、「技術」「一般科学」「社会科学」「文学」「アート」のそれぞれは全て立派なものだと思われる。
僕は今まだまだ「技術」と「科学」の影響が強い。ずっと子供の時から自分をそういう風に育ててきた結果だ。
でも一つ思った。やはり「文学」は「知る」と「感じる」の架け橋のごとし。
セネカは「人は、教えているとき、学ぶ。」と言っていた。
学ぶことは知ることとも言える。だから考えていない人は知っていない人だ。
考えていることを書き出す「 文学」は知っている証拠にもなれる。
しかも文学は感情に溢れる、感情を伝われる。
まさになぜ「作家」が歴史に残るかをそれで明らかになる。
文学で知り、文学で感じ、文学を作って世界に自分の思い出の種を残す。
確かに憧れる。

「アート」はその中に「音楽」があって、とても美しい。美しいけど、言葉でもない、はっきりしたメッセージはそれだけでよくあまりない。感情の世界だ。
壊れた言語みたいに、何かを感じさせるけど、はっかりその何かが解らない。しかも文化によって個人によって同じ「絵画」を見ても、同じ「音楽」を聴いても感じられることは違う。

逆に「技術」の中で作った人の思い出が残ると言ってもやはりまず道具になる。
でも道具としてもたまに社会を変わらせるほどの力がある(携帯とコンピュータはその一つの例示)。
僕はまたそれで別の美しさを感じる。

とりあえず人間はこの世界に色々出来る。
歩める道 が多く、それでこそ迷う人が大勢いる。でも一所懸命知ろうとしたら、全力で感じようとしたら、自分の全てを含めてこの世に自分の一つの欠片を残してみたら、それでこそ人間として「精一杯生きた」証拠になる。
それをしてみたなら、他の人は解らないけど、僕はあなたのことを忘れない。
あなたのことを知らなくても、あなたを尊敬する。
うまく行けなかったかもしれないが、僕は立派だと思う。

何かポジティブに生きてゆこう。

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